あさが来た

『あさが来た』のモデルは大同生命の創業者!家系図や生い立ちは?

『あさが来た』のモデルは大同生命の創業者!家系図や生い立ちは?

2015年に放送された朝ドラ『あさが来た』は、最高視聴率27.2%と大ヒットしました。波留さんが演じるヒロイン、あさの口癖「びっくりぽん」も有名ですね。『あさが来た』はフィクションですが、ヒロインにはモデルとなった人物がいます。この記事では『あさが来た』のモデルについてまとめました。

『あさが来た』 モデルは誰?

『あさが来た』のモデルは広岡浅子さんです。広岡浅子さんは1849年生まれで、朝ドラとしては最も古い年代が題材になっています。幕末の、まだ女性が働くことがほとんどなかった明治時代に活躍した広岡浅子さん。『あさが来た』は様々な障壁を乗り越えていくたくましいヒロインが描かれています。

『あさが来た』 モデルの功績は?

『あさが来た』のモデル、広岡浅子さんは実業家で、銀行、生命保険会社、女子大学をつくりました。

1888年 加島銀行の設立

広岡浅子さんは加島銀行を設立しました。加島銀行は、嫁ぎ先の加島屋の事業の一つ、両替商を転身させたものでした。頭取や社長は夫とその兄弟ですが、実際の経営は広岡浅子さんが担っていたようです。

なお、加島銀行は広岡浅子さんの死後、昭和恐慌もあり廃業しました。現在は大阪に支店の建物が残っているのみです。

1902年 大同生命の設立

広岡浅子さんは大同生命を創業した時の経営陣のひとりです。きっかけは真宗生命から加島屋に経営支援の要請があったことでした。その後、他社との合併などで事業を拡大し、成功させたのは広岡浅子さんの手腕です。

その時代、保険会社は杜撰な経営をしているところもあるうえ、保険の必要性も一般に普及していませんでした。それでも保険事業に乗り出したのは、生命保険が人々のためになると考えたからだと言われています。

女子教育の普及

広岡浅子さんは学問を禁じられて育ったため、必要な知識は家を出てから独学で身に着けたようです。その経験から、女子教育の必要性を強く感じていました。日本女子大学の創始者、成瀬仁蔵さんの理念に大きく共感したことから、大学の設立のための資金作りに奔走することになります。広岡浅子さんの働きにより、日本女子大学は1901年に開校しました。

晩年も勉強会の開催など、精力的に活動し

“死の二日前まで、訪問客と社会情勢を論じ、天文学について質問をしていた”

そうです。(引用:大同生命

『あさが来た』 モデルの生い立ちは?

『あさが来た』モデルの広岡浅子さんは裕福な家に産まれ、2歳の時にはすでに縁談が決まっているなど、現代の一般人には信じられないような生い立ちです。

大同生命のホームページに家系図がのっていますが、活躍した人物が多く登場し、面白いとの声もあります。

幼少期の環境

広岡浅子さんは1849年に生まれました。実父は出水三井家の六代目当主ですが、すでに隠居していたため七代目の三井高喜の元で育ちます。

“高喜が二九歳の時に、二歳の浅子を義妹として入家(三井家の一門として認め、三井家で育てる)させ”

(引用:大同生命)父親代わりとして育てたようです。また、高喜の長男、高景は浅子の1歳下で、生涯を通しよき理解者でした。

実家との関係は非常に良好ですが、女子に学問は不要という考えが根強く、

結婚後の家族

2歳のころには既に決まっていたという結婚相手、広岡信五郎さんと予定通り結婚します。夫は最大の理解者となり、一女、亀子を儲けます。

現代ではあまり無いことですが、夫はお手伝いさんとの間にも子供を儲けていました。そのうちの一人は広岡浅子さんの死後に大同生命の社長となっています。

まとめ

『あさが来た』のモデル、広岡浅子さんは実業家で、女性の活躍が珍しかった時代に次々と事業を成功させました。もっとも有名な功績は大同生命を創業したことです。

また、幼いころ学問を禁じられていた苦い経験から女子教育に関心があり、日本女子大学の設立に奔走しました。広岡浅子さんは人々のためになる事業を成功させ、それらは現代でも続いているのですね。

朝ドラ【エール】の見逃し動画を無料で視聴する方法はこちら。

見逃し動画を観る
↑再放送もこちらで確認できます。

その他、スカーレット全話あらすじとキャスト記事も公開中。

あらすじ全話キャスト